ひびのきろく

ちょっと覚えておきたいことを書き留めます。

重層的「わたし」の描像

「わたし」は意識的にしろ無意識的にしろ様々な目的を持って行動しているように思う。 しかし目的によってその時間軸は秒単位から年単位まで様々であり、空間方向の大きさも場合によって異なる。 また「わたし」はただ一つの目的のもとに生きているわけではない。そこには重層的な、複数の、時空間解像度の異なる目的が展開されている。

ところで目的とは主体の双対、すなわち「わたし」の双対である。 つまり、それら重層的で時空間的広がりを持つ目的のひとつひとつが「わたし」に対応する。

「わたし」=時空間的広がり、というあいまいな表現を少し単純化してみよう。例えば「わたし」とは時空間上の点からなる集合である、とする。このとき、あるひとつの「わたし」はその内側に小さな複数の「わたし」を部分集合として含み、またその外側には自身を部分集合として含むより大きな複数の「わたし」が存在する。 また時間方向の断面を考えれば、ひとつの「わたし」の内側で絶えずいくつもの「わたし」が生まれ、膨張し、収縮し、あるとき目的を達して消えてゆく。それらがひとつの時空間上で互いに含み、含まれ、あるいは互いに一部を共有し、あるいは全く重なることなく、共存している。

この重層的な集合としての「わたし」の描像を受け入れると、いくつか疑問が湧いてくる。

  • 我々はある特定の時刻・地点において二つ以上の「わたし」を自分自身として捉えることができないように思われるが、いったいどのようにして特定の「わたし」が選ばれているのか。

  • 時空間中における「わたし」として許される形、特に我々が自分自身として捉えることの多い「わたし」の形はどんなものであろうか。連結である必要はあるのか。仮にそうだとして、時間方向の断面において連結である必要はあるのか。

  • 通常我々が自分自身として捉える「わたし」の時空間的広がりには、1日、1人、遺伝子などといった特殊な単位が存在するように思われる。これらの特殊単位はどのような仕組みで生まれるのだろうか。それらの特殊単位を超越することはできるのか。

不連続性にある悲しみ

何かの終わりを予感して悲しみを覚えることがある。

私たちはものの始まりと終わりを感じる。ものごとには切れ目があると感じる。悲しみとは切れ目の感情なのではないか。

私たちは知覚するものを区切って内面化する。連続的な軌跡を小さい区間に断片化して体験している。その体験が内面の多くを占めるほど、その終わりに悲しみを覚える。自分の一部が死に、更新される感覚を持つ。

しかし外界が変化する以上、そうやって自分を更新してゆく必要がある。そうやって変化に追従するのだ。時間が進むにつれて新しい体験に出会う一方で、完結した体験に割り当てていたリソースは解放しなければならない。

一連の体験を高次の知識に昇華し、割り当てていたリソースを解放する。一連の体験に紐づけられていた感情、思考、記憶を総括し、手放し、次の体験に備える。

この体験の切れ目にある手放しの行為が、悲しみそのものだという気がする。

自分の境界

「自分」であるという認識の範囲はどのように定まるのだろうか。 私たちは自意識の自然な単位が生物としての人間だと認識しているけれども、いつも決まってそうなのかと考えると違う気がする。

たとえば、痛みなどをトリガに手や足など体の一部に意識が集中することがある。このとき「自分」は縮小している。今タンスの角にぶつけた足の小指があたかも自分の中心だという感覚。それまで気にしていたアゴ下のニキビのこともその瞬間だけは忘れてしまうような感覚。

あるいは手術によって自分の臓器(例えば肝臓)を入れ替えることになったとしよう。入れ替えのまさにその瞬間まで、新しい肝臓は「自分」の一部ではない。しかし術後の生活を通してそれは「自分」の一部として吸収されていく。あるいはそれがどこか「自分」ではない感覚と付き合いながら生きてゆく。いずれにしろこのとき「自分」の境界が揺らいでいる。

また、我々はしばしば人間より大きい集合に意識を同化させる。家、血縁、地域、国、人種、職業、性別など、様々な集団を代表する主体であるかのように感じ、考え、行動する。このとき「自分」の境界は生物的単位を超えて膨張しているように思われる。

つまり「自分」というものは揺らぐものらしい。 とすると、どうして生物的単位だけが特別に感じられるのだろう。何かの必然なのだろうか。それとも単なる思い込みでしかないのだろうか。

孤独という感情

なぜ喜怒哀楽などの様々な感情があるのだろうと不思議に思うことがある。

人間の最も基本的な感情は、実は孤独なのではないか。

孤独が喜怒哀楽を呼び起こす原初の感情なのではないか。孤独でないことを喜び、孤独であることを哀しむ。孤独の陰に怯えて怒り、孤独を退けて楽を感じる。愛や祈りは孤独の痛みを和らげる試みなのだ。一面的ではあるが、物の見方としては成立していると思う。

そもそも、生きるものはすべて孤独から逃れることはできない。自分の生き死にの責任を取るのは自分しかいないからだ。生き死にに関わる責任の単位こそが自分というものの定義と言ってもよい。たとえ家族・会社・地域などの共同体に属していたとしても、自分の生物としての存亡の責任をとれるのは生物としての自分だけだ。

瞑想をすると、この孤独が根本にあることがよくわかる。ひととき周囲と自分とを切り離して内なる感情を吟味すると、その源を辿った先にいつも孤独があるようなのだ。また辿った道をゆっくり振り返れば、孤独から我が感情の湧き上がるさまを見通すことができる。

そうして自らを整えるのが、瞑想のありようなのだと思う。