ひびのきろく

ちょっと覚えておきたいことを書き留めます。

自分の境界

「自分」であるという認識の範囲はどのように定まるのだろうか。 私たちは自意識の自然な単位が生物としての人間だと認識しているけれども、いつも決まってそうなのかと考えると違う気がする。

たとえば、痛みなどをトリガに手や足など体の一部に意識が集中することがある。このとき「自分」は縮小している。今タンスの角にぶつけた足の小指があたかも自分の中心だという感覚。それまで気にしていたアゴ下のニキビのこともその瞬間だけは忘れてしまうような感覚。

あるいは手術によって自分の臓器(例えば肝臓)を入れ替えることになったとしよう。入れ替えのまさにその瞬間まで、新しい肝臓は「自分」の一部ではない。しかし術後の生活を通してそれは「自分」の一部として吸収されていく。あるいはそれがどこか「自分」ではない感覚と付き合いながら生きてゆく。いずれにしろこのとき「自分」の境界が揺らいでいる。

また、我々はしばしば人間より大きい集合に意識を同化させる。家、血縁、地域、国、人種、職業、性別など、様々な集団を代表する主体であるかのように感じ、考え、行動する。このとき「自分」の境界は生物的単位を超えて膨張しているように思われる。

つまり「自分」というものは揺らぐものらしい。 とすると、どうして生物的単位だけが特別に感じられるのだろう。何かの必然なのだろうか。それとも単なる思い込みでしかないのだろうか。